後悔授業のすすめ?!
公開授業とワープロを打ったら、後悔授業と変換された。そうかあ。授業を公開することは後悔に通ずるなあ。それならタイトルは「公開授業のすすめ」ではなく、「後悔授業のすすめ」にするか、ということで冒頭の表題と相成った。決して下手な授業をして生徒に迷惑をかけてもいいという意味ではないので、念のため。 これまで教員の世界は、他の先生の授業を見せてもらうことも、他の先生に授業を見せることもほとんどタブーに近かった。実際、これまで公開授業をおこなったことのある先生はどのくらいおられるであろうか。30年間教師をやってきて、1度か2度しかないという先生がほとんどではなかろうか。 私自身、今でこそ指導教諭という立場で「授業を自由に見に来て下さい」と気軽に声をかけることができるようになったが、以前はそうではなかった。批評を請い、自らの授業力を高めるのが目的だったとしても、人によっては「何をうぬぼれているんだ」と受け取るかもしれない。だから、呼びかけるのをためらわざるを得なかった。
われわれ教員は、教室という密室で授業をおこない、公開しない限り、批判されることも恥ずかしい思いをすることもない。しかし、いつまでも自分の殻に閉じこもっていては進歩にも限界がある。
教科を越えて見に行こう 一般に、公開授業をしても教科外の先生はあまり来られないことが多い。しかし、教科外の先生にも役に立つことはたくさんある。 そのときequatorという単語が出てきた。地球の北半球と南半球をequalにするからequatorは赤道という意味にな
り、またエクアドルという国は赤道直下だからこういう国名になったと聞いて、教授者の博識ぶりに驚嘆すると同時に、これらがすべて一つの語源に由来することを教えられ感動した。 さらに、ご自身がNHKの「話し方教室」に提出されたテープを持参し生徒に聞かせておられたのを見て、人気のある授業の背景にはこうした目に見えない努力があるんだということを知らされた。 専門外の授業でも、教養講座と思って聞いていると、ずいぶん楽しいものである。
反対に教科外の先生の中には、「その科目が嫌いだった、苦手だった」という理由から、専門の先生が気づかない部分が見えることもある。専門外の先生のコメントが意外と的を射てたりすることも少なくない。
授業力の向上に向けて そうした授業はどうすれば可能なのか。今まで教員の世界はあまりにも閉鎖的すぎた。もっともっとお互いのノウハウを交換しあって、授業力を向上させられないだろうか。それは生徒のためでもあり、自分自身のためでもある。 学校というところは人材の宝庫である。素晴らしい先生がいっぱいおられる。他の先生が見に来られても萎縮する必要はない。失敗をおそれる必要もない。もっと、お互いに気軽に声を掛け合える雰囲気を作り出したい。
求められる教育の中立性 イデオロギーが絡む科目は社会科だけではない。国語、理科、家庭科などもイデオロギーとどのように向き合うかを問われる場面が多い。イデオロギー抜きで授業ができるのは、数学くらい(?)のものかもしれない。
もし公開授業がかつてのように国家権力による特定のイデオロギー(それが右であれ左であれ)を強制するための手段として使われるとすれば、公開授業は危険に満ちたものとなる。 授業者はもちろんのこと、これを指導する指導教諭もまた中立的でなければならない。
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