アクティブ・ラーニング考 (2017年6月11日)

 

 いま、教育現場では「これからはアクティブ・ラーニング(Active Learning)の時代だ」という声が高まっている。もともと大学で始まった授業改革なのだが、いまそれを高校でも導入しようとする動きがある。そもそもアクティブ・ラーニングとは何なのか。その目的、方法、注意すべき点などをまとめてみた。



1、いまなぜアクティブ・ラーニングなのか?

 過去を反省するところから新しいものが生まれる。アクティブ・ラーニングも同じである。日本の大学の講義サンデル教授の「ハーバード白熱教室」を比較してみてほしい。日本では、大教室で先生の話をひたすら聞くだけである。

ところがサンデル教授のやり方は、学生から意見を引き出し、学生を巻き込んで展開する「参加者中心の授業]である。先生はもっぱら進行役(ファシリテータ)として、議論の進行をハンドリングするだけである。

 政治・経済のグローバル化が進行する中、日本の教育もアメリカ型にする必要がある。そうしなければ日本の大学は世界から取り残される。座学だけでは本物の知識は身につかない。社会人になっても役立つ知識とは、知識そのものを暗記することではなく、「正解のない問題」にいかに取り組むかという姿勢ではないか。アクティブ・ラーニングは、そうした日本の大学教育のあり方に対する危機意識から始まった。

 アクティブ・ラーニングの最大の特徴は「正解のない問題」を議論することである。そして、その最終目標は、議論を通して自分なりの考えを深め、「自分の言葉で語る」ことができるようにする。すなわち

 主体的に

 
対話的に

 深い学び

を目的とする。

いまから20年ほど前、大阪外国語大学(当時)に進学した教え子がイギリスに留学した時の話を語ってくれたことがある。彼女曰く、「言葉の問題は別に不自由を感じなかった。しかし、あなたの考えはどうなの?と質問され、大変困った」という。アクティブ・ラーニングは、そうした状況に対応できる学力を身につけさせる一つの方法だといえる。




2、具体的にはどんなことをするのか?

 教師が一方的に説明する座学で学んだPassiveな知識は定着率が悪い。それよりは自分で読書をするなり、友達と議論をするなり、実際に調査をするなりして、Activeに学んだほうが知識の定着率ははるかによい。そこで、アクティブ・ラーニングでは、次のような授業形式が推奨される。

@ ケースメソッド(事例研究)を取り入れ、そこに登場する主人公になったつもりで、「どのような意思決定をすべきか」「当事者としてどう行動すべきか」を考えさせる。

A グループディスカッションをさせる。それにより自分一人では考えつかなかったような新しい「気づき」を発見させる。ただし、アクティブ・ラーニングの本番は、グループディスカッション後の全体討論である。グループディスカッションの実施=アクティブ・ラーニングではない。

B 予習を課し議論に備えさせる。事前に何の準備もしないで予備知識ゼロとゼロの人間が集まって議論しても、議論は深まらない。教員はあらかじめ質問事項(アサイメント)を与えて、読書や現地調査をするように指示しておく必要がある。


 もっとも高校の社会科の場合、実際に毎時間の授業に予習を求めることは困難である。だから、50分の授業のうち、

・ 講義(20分)
・ グループディカッションおよび全体討論(20分)
・ まとめ(5分)


などとするとよいかもしれない。もちろん、講義の時間が短くなる分、教えられる知識量は減少する。しかし、

生徒の知識量=教えられた知識量×定着率

と考えられるから、アクティブ・ラーニングとは定着率を高めて授業効果を上げようとする試みともいえる。




3.高校では定着しない?

 これまで日本では「ゆとり教育」「総合学習」「観点別評価」「ルーブリックなどさまざまな教育改革が提唱されてきた。しかし、どれも定着しなかった。ゆとり教育は生徒の遊ぶ時間を増やしただけであり、総合学習は教員の負担があまりに大きくまともには実施されてこなかったし、観点別評価やルーブリックは、教員の単なる「作文」でお茶を濁した感がある。要するに現場はほとんど変わらなかったのである。アクティブ・ラーニングも同じような「骨抜き」の運命をたどるのではないか

 第一の理由は、大学入試制度が変わらないからである。いうまでもなく教育現場に最大の影響を与えるのは「学習指導要領」ではなく、大学入試制度そのものである。これまで学習指導要領が変わるたびに、文部科学省はさまざまな新機軸を打ち出してきた。しかし、それらは、役人が自分の手柄を立てるために打ち出したと思えるものばかりであった。共通一次試験やセンター試験が導入されたときでさえ、「薄っぺらな知識偏重」の入試は変わらなかった

もし、大学入試が本気で変わるというのであれば、それは高校以下の授業に決定的な変化をもたらす。しかし、そんなことが本当に可能だろうか。受験生の思考力や判断力を知るには、小論文、面接、集団討論、プレゼンテーションなどが欠かせない。しかし、50万人もの受験生にそうした試験を課すことを本気でやるとはとても思えない。

 もっとも、いったん大学に合格したらエスカレーター式に卒業できるといういまの大学制度を改めて、入学試験は緩やか(=もっといい加減)にして、大学入学後の単位認定を厳しくしてバンバン留年をさせるというアメリカ方式にすれば、高校の授業にもアクティブ・ラーニングを導入できる可能性はある。


 第二の理由として、教員の力量の問題がある。大学の教員は自分の専門科目を教えるから、教室での議論を自在にハンドリングできるかもしれない。しかし、高校の社会科の教員は、時には専門外の科目を持たされることが少なくない。また、専門であったとしても、議論を自在にハンドリングするためには、教員に相当の力量が求められる。もし教員の負担が大きすぎれば長続きはしない。


 第三の理由として、評価の問題がある。一般に、評価は定期考査の点数で行なわれる。しかし、アクティブ・ラーニングの評価は「授業貢献度」によってなされる。そのためには問いに対する発言回数や内容などがその都度記録される必要がある。しかも、客観的な評価は望むべくもない。できることといえば、せいぜい定期考査の参考資料程度であろう。生徒の最も大きな関心事は成績である。もし、参考程度にしかならないとしたら、果たして全員が真剣に取り組むだろうか。



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 授業には「注入主義」と呼ばれる方法と、「善さを引き出す」という二つの方法がある。もし、アクティブ・ラーニングが後者の趣旨であるとするならば、現在の講義主体の授業でも十分可能である。多くを教え過ぎず、物事の本質について考えさせる工夫はいくらでもできる。要するに授業とは、「感動させること」であり、「もっと知りたいなー」と思わせることである。アクティブ・ラーニングなどという「形式」にあまりとらわれる必要はない。どうせ、数年もしないうちに死語となる。

 


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