自伝(壊し屋伝説)

第1部〜「序章〜生い立ちとか」

  幼い頃から与えられたオモチャを壊すのは日常茶飯事、小学生の頃はプラモと自転車、
 中学生になると鉄道模型といった具合で「壊し屋」としてのスキルアップを図ったおらは、
 受験勉強もたいしてしないまま高校生になってしまい、「次はオートバイを壊してやろう」と
 思ったのです。
 (本当にそう思ったわけではありませんので、念のため)

  もともと、おらはどのようにしてモノを壊すのかと言いますと、ポータブルラジオで野球の
 放送を聞いていて贔屓の球団が負けてしまった時のオッサンがラジオを投げつけて壊して
 しまうというような「暴力的破壊」ではなく、ここをこんな風に改造したらイイんじゃないかと
 考え、いぢくり回した果てにどうにもならなくなってしまうというような「知能的破壊?」とも
 言えるもので、その知能レベルが低かった頃はプラモデル用モーターの配線を家庭用の
 コンセントにつないでブレーカーを飛ばしてしまうようなおバカな破壊が多かったのですが、
 人並みかどうかは別にして、おらにも一応脳ミソらしきモノがあり、学習能力も多少はあっ
 たため、改造に失敗して破壊するばかりではなかったのも事実です。
 (ごく希にですが、人に褒められることもあったような気がします)

  ところが、時は昭和50年の秋!あの忌まわしき「自動二輪免許改正」のせいで無条件の
 自動二輪免許を取得できなくなってしまったおらは、とりあえず近所の本屋さんで参考書を
 買い、それまでマトモにしたことのなかった勉強をした末、何とか原付免許をゲットしました。
 そして、母の生家に放置してあったホンダCD50というビジネスバイクをいただき、いよいよ
 猿人付の乗物をいぢくり回す世界にデビューしたのです。
 (ここでおらの人生は大きく変わったような気がします)

  このCD50には痛恨の思い出があり、まだ免許を取得することができなかった高校1年生
 の夏休みにおらはこのCD50が「セル付・バッテリー点火」という特殊なモデルであることを
 知らなかった故に、下り坂を使って「一人押し掛け?」をすれば猿人は動いてくれるだろうと
 思い、猿人が掛からないまま母の生家から2キロ近く離れた坂の下の小さな町まで行って
 しまい、小さなクルマ屋さんで急速充電器を使って猿人を掛けてもらった際「このバッテリー
 の状態では押し掛けしても無理だよ」「新しいバッテリーを使わないとマトモに動かないよ」
 「今度エンストしたら二度とエンジンは掛からないからねっ!!」と言われたにもかかわらず、
 そのクルマ屋さんから1キロも走らないうちにエンストしてしまい、重いマシンを汗だくになり
 ながら押して帰ることになってしまったのを今でも覚えています。
 (その当時から現在に至るまで体力にはまるっと自信がありませんでした)

  かくして、新品のバッテリーにより復活したCD50を乗り回すことになったおらは、当然なが
 ら改造(破壊)への道をひた走ることになるのですが、いかんせん資金の乏しさと社外品の
 改造パーツが少ない分を体力でカバーするしかなく、ノーマルマフラーに穴を開けて排気音を
 大きくしてみたり、ハンドルの取付角度をいぢったりする程度にとどまっていたのでした。
 (それでも当人自身はスゴイ改造をした気分に浸っていたのでした)

  一方、ミニバイクを巡る世相は「モンキーVSミニトレ」といった具合だったのですが、一部
 の改造マニアがモンキーにスーパーカブ等の純正部品を流用したパワーアップを施していた
 のみで、ミニトレユーザーはほとんどノーマルの状態で乗るしかなく、たいした知恵もなく資金も
 乏しかったド素人に近いおらにとっては改造すること自体ほとんど不可能な御時世でした。
 (ただ単にそういう世界を知らなかっただけかも知れません)

第2部〜「時代の流れに乗って?」

  もちろん、そういう御時世ですからおら自身もモンキーをいぢってみたかったのですが、父親
 が「あんなちっこい単車は危ないからダメだぁ!」と言うので、とりあえずモライモノのCD50を
 乗り回しながら資金調達のためアルバイトをし、高2の夏休みに自動車学校へ通い中型自動
 二輪の免許を取得しました。
 (試験場で小型二輪の実地を受けたこともありますが、見事に落ちました)

  その頃おらの友人達はモンキーやミニトレを購入しておりましたが、おらの魔の手から逃れる
 ことができなかった哀れなモンキー所有者は、自らの意志を失いおらの言うがままに改造をさせ
 られていたのです。例えば、Z50Jのテール台を金鋸で切って短縮し一時的にはカッコ良くなった
 ものの、振動に耐えられず切り口がヘシ折れてしまったとか、近所の大型ゴミの集積場所で見
 つけたボロボロのSS50を自宅まで運搬(?)するのを手伝わされ、その果てに猿人を分解して
 みると肝心の5速ミッションのギヤが何枚もボロボロに割れており使い物にならない状態だった
 とか、他にもここにはとても書けないようなお話(すでに時効だったりして)がいくつもありました。
 (でも、そのSS50はシリンダーヘッド周りだけが何とか再利用できました)

  そして、その当時モンキーの改造で名を馳せた「早矢仕モータース」にも、前段に登場する
 哀れな友人達を引き連れて出入りしておりましたが、いかんせん貧乏人の友人には貧乏人が
 多く、キレイにドレスアップされたモンキーを羨望の眼差しで見ながらなけなしの小遣いで安い
 パーツを購入していただけだったのです。もちろん、この店にはモンキー(ダックス)以外の
 オートバイを改造するためのパーツなどは一切売っていませんでした。
 (高校の同級生には金持ちのボンボンが多く、店内で調子こいていました)

  という具合で、もっぱら他人のマシンをあれこれいぢっていたおらも、遂に自分のマシンを
 購入することとなりました。それは近所の自転車屋さんに下取り車として出ていたミニトレ80
 (以下GT80と呼びます)で、50ccモデルには存在しなかったブルーメタリックの塗色は、おらの
 自尊心を満足させるものがありました。しかし、このマシンはモトクロスをやっていた前ユーザーが
 モトクロス場での足を兼ねて使っていたものだったようで、ウインカーとヘッドライトは傷だらけ、
 エアクリーナーの中身は砂埃だらけ、シートベースはヒビ割れている代物で、まずはこれらの
 修理を済ませたのち、なけなしの小遣いで改造にとりかかったのでした。
 (ちなみに、車両の購入価格は3万5千円でした)

  かくして、貧乏人のおらはまたまたアルバイトに精を出し、リアショックを社外品に交換し、Z2
 ミラーを付けるためにハンドルを交換したのち上級車用のレバーを流用し、RD50(MR50?)用
 の5速ミッションに換装し、あとはFフォークを強化してオンロード用のタイヤを組めば完璧だぁ〜!
 と考えていたのですが、残念なことに後輩(♀だったりして)を乗せて調子こいて走っていた際
 クルマとぶつかってしまい、フレームまでイッてしまうわ、乗っていた本人達2名も怪我をして
 しまうわですべてがオジャンとなってしまいました。
 (猿人はGT50に乗っていた友人に譲りましたが、なぜかこいつも事故りました)

第3部〜「その後の壊し屋・大学生編」

  なけなしのお金で改造したGT80を壊してしまったおらは、その後友人の所有するオートバイ
 を拝借することはあっても自分のモノとして保有することはないまま高校3年の冬に自動車免許
 を取得し、またまた受験勉強もたいしてしないまま大学生になってしまいました。
 (当時、高3の2学期に自動車学校へ行く受験生はほとんどいませんでした)

  子供の頃「カーグラフィック」という雑誌を読んで育った小生意気なガキだったおらは、欧州車
 に憧れながら父親の茶色いカローラに乗って大学へ通い始めたのですが、そこで「自動車部」
 というヤクザな世界に首を突っ込むことになってしまい、先輩達の教えに従い大学ラリーのナビ
 ケーターをさせられたり、ダートトライアルに出場することになったのです。
 (一応体育会系の厳しい?クラブで、現在ハチロク専門?ショップを経営している先輩もいます)

  ここでもおらは走るよりはいぢる方が得意なことがすぐに露見?してしまい、学校へ行っても
 先輩や後輩のクルマの足回りをバラすために駐車場まで行くだけでマトモに講義を受けること
 は少なく、イヤがる父親を説き伏せて購入させた2台目のカローラ(レビンもどきの1500SR)
 を乗り回すようになってからは、自らのクルマの足回りをいぢり始め、走る方もそれなりに上手
 になった?のです。
 (もちろん、改造費はアルバイトで稼ぐ「貧乏学生」でした)

  また、当時のクルマに標準装着されていたカーステレオはデキの悪いモノが多く、社外品の
 カーコンポへの交換作業も幾度かおこないましたが、シートの下にアンプを置く際にシートの取り
 付けボルトをへし折ってしまったり、シートをスライドさせた途端に配線がブチ切れてしまいハンダ
 ゴテのお世話になったりという具合で、相変わらず壊し屋としての面目を保っていましたが、友人
 のひとりが交通事故を起こした際に鈑金修理を依頼した工場で「どこのカーショップで付けてもら
 ったの?丁寧な作業がしてあるねえ」と言われたりすることもありました。
 (工賃はカーショップより安値〜メシ代とか〜で請け負ってました)

第4部〜「クルマとの生活」

  またまたたいした勉強をすることもなく大学を卒業し勤め人になってしまったおらは、中古の
 スターレット(KP61)を購入するとともに少ない給料をドンドン注ぎ込んでしまい、貧乏な大学生
 の頃には夢のまた夢だった「フルラリー仕様もどき?」に改造しました。さらに、またも父親を
 騙して購入させたカリーナツインカムターボ(TA63)を「舗装路暴走仕様もどき?」に改造し、
 ダートだけでなく舗装路でさえもクルマを横向きにして走らせ、タイヤ屋さんを儲けさせており
 ました。
 (結局、2台のKP61を6年にわたって乗りまくりました)

  前期型のKP61はデフが弱く、仕事の帰りにトラックを追い越すためにシフトダウンした直後、
 いきなりリングギアが欠けてガランガランと音を立てて止まってしまったり、TA63で東京まで
 遊びに行く途中、東名高速でマフラーから火を吹くスカイラインターボと追っかけっこをした
 果てにタービンを壊してしまい、名古屋に帰ってすぐ愛知トヨタへ持ち込むことになったり、
 相も変わらず壊し屋としてのおらは着々とスキルアップしていたのでした。
 (そう言えば、初めて「速度超過記念写真」を撮られたのもTA63でした)

  昭和から平成に年号が変わった頃、円高ドル安の影響で輸入車が安くなったのと、ロクに
 仕事もしていないにもかかわらずそれなりに給料が多くなったおらは「そろそろ輸入車に乗って
 やろうかなあ」などと不埒なコトを考え始め、通りすがりのディーラーシトロエンAXという
 欧州車を購入してしまいました。
 (足回りがガチガチのクルマに乗るのに疲れてしまったのかも知れません)

  しかし、妙ちくりんな輸入車は経年変化によってあっちこっちがおかしくなり、下請け業者の
 いい加減な作業に腹を立てたおらは自分で足回りを修理し、ディーラーの社長を驚かせたり
 しましたが、さすがに原因がよく分からない電気系統のトラブルには対処できず、「結婚!」と
 いう大金が必要なイベントを目前に控えクルマとの生活を一時的に中断することを決意したの
 でした。
 (電気系統を修理しても、AT車しか乗れない妻には意味がないのです)

  この少し前、前述のカリーナツインカムターボはサビだらけになっていたため、ちょうどその頃
 退職金を手にしていた父親を騙してプリメーラT4という4WD車を購入させたおらは、このクルマ
 をスキー用の足として、自分ではほとんどガソリン代を払わないまま乗りまくっておりました。
 このクルマは4WD車としては若干アンダーパワー気味?でしたが、高速安定性は抜群だった
 ため「冬季限定?高速巡洋艦」として大活躍してくれました。
 (当時、名古屋ICから豊科ICまでの間をおおむね2時間弱で走っていました)

  そして、実家にほど近い賃貸アパートに住むことになった新婚間もないおらは、とりあえずの
 足として自転車(マウンテンバイクもどき)との生活を始めたのですが、何だかんだと理由を
 つけては実家へ行き、父親からプリメーラを取り上げては乗り回す日々を送っていました。
 しかし、このクルマもマニュアル車だったため、AT車しか乗れない妻は自転車(ママチャリ)
 オンリーの生活を強いられていたのでした。
 (もちろん、ガソリン代はほとんど支払ったことがありませんでした)

  のちにおら達夫婦はオペル ヴィータを購入し、父親のプリメーラは新型マーチになりました。
 (ホントはプリメーラの代替にアルテッツァが欲しかったのですが・・)

第5部〜「パソコンとの出会い」

  職場に置いてあった古いパソコンを使って文書らしきモノを作ることができるようになったおら
 の前で、久しぶりに逢った事務屋さんの先輩はこう言ったのです。「もうじきウィンドウズの
 パソコンが会社に入るから、今のうちから使えるようになっておいた方がイイよ」と。その頃
 「インターネット」という世界に興味を持っていたおらは、その先輩に「ウィンドウズのパソコンを
 買えばインターネットができるのか?」と尋ねたのち、初めてのパソコンを購入することを決意し、
 またしても父親を騙して大金を巻き上げたのでした。
 (当時、ノートパソコンは50万円近くする高価な品物だったのです)

  かくして、パソコンの世界に手を染めたおらは、購入後1ヶ月も経たないうちにウィンドウズ
 の再セットアップをするわ、たいした知識もないのに古いパソコンを改造するわ、自作機を作るわ
 といった具合でどんどんハマっていったのですが、パソコンはクルマやバイクなどと違い物理的に
 壊れていなくても内部(システム)が壊れていたり、機械的には壊れていなくてもなぜかマトモに
 動作してくれないという「新しい壊し屋の世界」を教えてくれました。
 (でも、妻に財布を握られていたおらは軍資金の調達に結構苦労しました)

  また、最初はヨコシマな理由で始めたインターネットも、その扱いに慣れてくると日常生活の上
 でも結構役立つものであることが理解でき、友人とのメールのやりとりやオークションを利用した
 物資の購入も生活の一部となり、挙げ句の果ては職場の仲間を集めてメーリングリストなどを
 おっ始めてしまいました。
 (現在に至るまで、おらはケータイのメールは「非常用」と認識しています)

  しかし、このパソコンの世界というのはとんでもない世界で、大金を投じて新しいマシンを購入
 しても、3ヶ月後には新製品が出てくるし、目いっぱいの軍資金を投入して自作機を製作しても、
 じきに新しい高性能な部品が欲しくなるわという具合で、「自作機ユーザー」と言うとカッコよく
 聞こえますが、おらの場合は壊したり組み直したりを繰り返しているだけだったりしたのです。
 (でも、こういう世界がおらの体質に合っていたのかも知れません)

  という具合で、たかだか5年とちょっとの間に手に入れたり自作したパソコンは20台以上に
 なり、他人がパソコンを購入したり改造したりするのを手伝ったり、その果てには自作機の世界に
 引きずり込まれた不幸な仲間達とともに名古屋の電気街である大須界隈をほっつき歩くのが
 日常生活の一部となってしまったのでした。
 (もちろん、職場でも人並み程度にパソコンを使えるようになりました)

第6部〜「再会・そして回想」

  あれよあれよのうちに4?歳になってしまったおらは、ひょんなキッカケで中古のモンキーを
 手に入れてしまいました。そして、そのモンキーを改造するにあたって最も役立ってくれたのが
 インターネットの世界でした。前述の通り、オークションでパーツを購入したり、パーツメーカー
 等のサイトでオンラインショッピングをするのは当たり前のことですが、それよりもっとスゴイこと
 は、世の中にはモンキーいぢりをテーマとしたホームページがいっぱい存在し、そこでいろいろ
 な情報を仕入れたり掲示板への書き込みをすることにより、これまでとはちょっと違った方法で
 知識を吸収できたことです。
 (猿人を作ってもらったショップも、インターネットを使って調べました)

  また、最新情報を入手する場所であるインターネットの掲示板やモンキー専門ショップで高校
 時代の昔話をするおらは、最近のモンキーを改造しバカッ速いマシンを作ればよいという人達
 にとっては異質の存在だったようですが、そういう人達とは違ったレトロな改造を好む人達の
 存在を知ってからは、自ら好んでそういう世界にのめり込んでいったのです。
 (ちなみに、おらのモンキー改造のテーマは「現在と過去との融合」です)

  かくして、2?年前の夢だったモンキーを当時の改造車以上のモノに仕上げることができた
 のは、もちろん沢山の人達の協力があってのことだと思いますが、「壊し屋」として生きてきた
 おら自身の履歴なくして、このマシンは存在しなかったのではないかとも思います。また、思い
 起こせばその昔、おらが幼かった頃の父親は休日になると当時としてはまだまだ珍しかった
 自家用車や電化製品等をいぢくり回して(壊して?)いたのですが、おらの「壊し屋の血」は
 この父親から引き継いだものだったのかも知れません。
 (父親は「おれはそんなコトばかりしていたワケではない」と否定していましたが・・)

  〜〜追記〜〜 平成18年2月1日、父親は75歳で他界いたしました。

TOPに戻る