仕事(アルバイト)体験記
学生アルバイト
初めてのアルバイトは、父の会社関係で、高校時代の春休みに中学生の弟と一緒にした電柱の不法広告(張り紙・ポスター等)の撤去作業だった。水を入れた重いバケツとブラシを持って2人ペアで歩いて回り、重労働で陽にも焼けたが、誰に監視されているわけでもなし、時間の制約もなく、マイペースで指定されたエリア内を作業すれば終わりという気楽なもので、何日間かした。その際、街中で水の補給や休憩の出来る公園は非常に有難い存在だった。削り落とした紙屑を道に放置していったら、電力会社へ苦情が来たという話もあったが…。
大学生になると、大阪学生相談所(学相)に登録すれば、登録証をくれて、アルバイトの斡旋をしてくれた。当時、学相は大阪市の扇町にあったが、割のいいバイトは競争で、前の扇町公園でのじゃんけんで決まった。日当が千円ならいいバイトだった。
そこで紹介してもらった初めのバイトは、少し遠かったが寝屋川市のパンの製造工場でのケーキ作り・箱詰め作業だった。初めて会社に行った時言われたのは、仕事のことではなく、(地方出身の)従業員の若い女の子達は大学生といえば尊敬しているんだから、そのイメージを壊すようなことはしないように、という注意だった。過去に何かあった?厳しい衛生管理と、壊れる製品が多くてもったいないというのが大きな印象だった。昼食は、ここで製造しているパンが無料、また崩れたケーキも分けてもらえた。しかし、機械に中指を挟むという事故を起こして辞める結果になった。続いて同じ事故があったので、その機械は改善されたという話を聞いた。労災なので、治療費は会社側が負担したが、労災保険は申請しなかったようだ。特に問題があるとは思わなかったが、役所に色々調べられるのが嫌だったのだろう。
人気があって競争率の高かったのが、日当が高くて比較的楽なガードマンのアルバイトで、制服を着ればそれらしく見えるから不思議だった。会社で少しだけの訓練をして、車に乗せられて、競艇場の周辺道路の整理に配置された。学生アルバイトのガードマンが競艇場にくる不法駐車をするようなこわいおじさんに注意なんてできません。警察との連携も教えてもらっていなかったので、見て見ぬふりをしていたら、住民の人からはなぜ注意しないのかと叱られた。
出版社主催の大学入試模擬試験の試験官も割のいい仕事だった。問題用紙を配って、試験中は室内を見渡していて、終われば用紙を回収するだけのことである。模擬試験なのだからカンニングも気にする必要はなかったし…。イベント会社でのイベントのお手伝いもしたが楽しかった。本好きの私としては印刷所での印刷製本作業のバイトも楽しかった。近所の文房具製造会社でのノート製本の仕事もした。カーペット屋での配送作業は重い仕事で楽しくなかった上、社内恋愛の男女がいちゃついていて不愉快だった。
万博会場や芦屋市民会館、学生運動で破壊された大阪市立大学のイス設置工事作業もした。学生として入れなかった大阪市立大学のキャンパスに労働者として入った。万博開催前に会場の中に入っていたので、パビリオンの位置や外観だけはよく知っていて、万博が開催されてもあまり興味がなくて行くことはなかった。
寒い冬の日、車の通行量調査をした。警察署の前でやっていたものだから、ある警察官が寒いだろうから署内に入ってすればいいよ、と言ってくれてそうしていたら、別の警察官から誰の許可をとって署内でやっているのかと言われた。
夏休み期間中は、大阪府の外郭団体が業務をしている府営プールでのバイトを3年間した。阪堺線で3駅、近いということで選んだが、毎年ここでバイトをしたという学生は多い。日当は安かったが、長期間で居心地が良かったせいだろう。私が配属されたのはバイトの給与計算などを行う労務係で仕事場はエアコンのきいた屋根裏部屋の室内だったが、応援で外へ出て駐車場整理や売店での販売もし、放送室に詰めたこともある。一度、そのプールサイドで歌手の美樹克彦が歌うTV中継があったので、見に行ったが、全然スターのオーラはなかった。
モラトリアム時代
大学中退後、両親の圧力に耐えかねて、一度は就職したが、腹が立つことがあって、すぐに辞めた。その後は就職して継続して働く気はなく、時折アルバイトをするという生活をしていた。将来の見通しは全くなかった。そんな時代、商店街の年末大売り出しの福引のバイトに行った。抽選器を回してもらい、当たりが出れば鐘を鳴らして景品を渡すというもの。一等賞は最終日にしか入れないということも知ったが、それは近所の人も知っていて最終日は大忙しだったが楽しかった。社会保険事務所で名簿整理のバイトをした時に公務員って楽でいいなと思ったのが、後に公務員試験を受ける動機にもなった。某大学校友会の名簿整理なども、楽で楽しい仕事だった。その時、街中を歩く、サラリーマンやOLに対し、引け目を感じるどころか、君たちは縛られているが、私は自由だという優越感さえ感じていた。
3年目の府営プールでのバイトは、大学をやめて自由な身である話をして、長期間働かせてもらった。ここから潮目が変わり始める。最後の年、総務係では仲良くなって、アルバイト(男女3名づつ)で、食事やボーリングに行ったり、職員の人(4名)とアルバイト(6名)で鳥取一泊旅行にも行った。多くの同世代のバイトがいて、大学生や高校生のバイトの女の子に好かれたり、年上の職員の人を好きになったりと、ここにはそれなりの青春があった。人生は変えられなかったけれど…。
プールのバイトが終わると、府営交通遊園でのゴーカート乗り場のバイトにもつかせてくれ、子ども相手で楽しかったので、就職直前まで働いた。ボーナス闘争というのもあった。ここの正職員にならないかという話ももらったが、公務員試験を受ける話をして待ってもらった。
また、職員の娘さん(中学3年生)の家庭教師を頼まれたが、不得手な英語を含む全教科教える自信がなかったので一度は断わったが、どうしてもといわれてしばらく家庭教師もした。ここで初めて少女マンガというものを読んだ。秋から冬の寒い時期、自転車通勤した。男女共学の高校に行きたいとの本人の希望だったが、なぜか気が変わってエスカレータ式の高校へ行くことになって、入試を受けることなく、家庭教師は首になった。
公務員時代
大学中退の身でいい就職先が見つかりそうもなかったし、かと言って積極的に公務員になろうという意欲もなかったが、公務員採用試験を受けるからと両親から時間の猶予をもらい、国家公務員採用中級試験に合格すると、その流れで就職した。その時の中級採用者は京大卒から高卒まで多岐に渡っていた。両親は非常に喜んでくれた。初任給は5万円弱だった。勤務地は大阪、和歌山、兵庫、奈良、福井で、本省庁(東京)での勤務はない。本庁勤務の話もあったが、別に出世したくもないし、苦労するのは嫌なので断った。昔人間の父親は出世するなら本庁へ行けば、と言ったが…。厳しい本庁勤務で性格が変わった人も見ている。それでも残った地方回りでは同期で一番出世だった。仕事関係で新聞に載ったことや、TVに映ったこともある。阪神・淡路大震災後は一番よく仕事をした。若い時は、仕事は苦にならなかったし、仕事で他人に頭を下げることもなかった。上司や部下と対等の議論が出来る職場で、上司にも積極的に自分の意見を言い、評価されることもあれば疎まれることもあった。自分では、それなりの仕事をしてきたと思っていたし、周りを見渡しても私より優秀な人はそんなにいないように思っていた。そういう自負心も傲慢さも、50歳になったあたりから急に影を潜めるようになる。仕事に対する能力の衰えを感じるようになった。年功序列という制度はそれなりに良く出来た制度である。年齢を経た世代が第一線で働き続けるのは難しい。能力の低下につれて、自分の意見を自信を持ってはっきり言えなくなったことにも嫌気がさした。雇われの身である以上、無意識にゴマをすったり卑屈にもなったりする。そんなことがもう我慢ならないほど嫌になった。また、50歳頃、いろんな不幸が重なり、ストレスから病気になり、入院・手術をしてからは、一層仕事に対する意欲はなくなった。特に最後の1年はやる気のない上に、つまらない仕事のポストに配置されて、苦しいだけで、途中何度も辞めさせてくれといったが、年度が終わるまでと認めてもらえず、更にもう3ヶ月延長をと言われたが、勤続30年、53歳で定年を待たずに早期退職した。退職時、「今後生活出来るお金は十分ありますので」と異例のあいさつをして皆を驚かせた。この時も定年を越えて働いた父親はもったいないと反対した。
嘱託職員
早期退職後は、いろんな意味もあって、嘱託職員になることを希望していたのだが、直後は叶わず、前職場の都合で途中から依頼を受けて、翌年の3ヵ月間、週2〜3日勤務の嘱託職員として働いた。継続を打診されたが、いろいろ思うところがあって当初契約で終え、以降勤務することはなかった。
会社設立、休業
個人で退職金を原資として外国為替証拠金取引(FX)を始めたところ、円安外貨高のいい時期で、望外の収益を得たので、世間体や税金対策もあって、自分の会社を設立して、代表取締役社長となった。会社は一時的には収益もあり、すべての事務を高齢の私がするのもしんどかったので、楽をしようと若い女の子の従業員も雇用していた。しかし、従業員退職後の100年に1度というリーマンショック時に対応を誤り大損害をだして、会社は事業の継続が困難になった。調べたところ廃業するためには、様々な手続きが必要で費用もかかることが分かり、休業するのが一番の得策ということで休業となった。会社事務所にしていた大阪のマンションは一時期、姪に賃貸して、その家賃収入と年金で生活していた。個人では額を少なくしてFXを続けたが、令和4年の円安外貨高の時期にすべてを決済し、投資からも引退した。会社は存続しており、毎年法人税の申告(ゼロ申告)はしているので、形式的には今でも社長であるが、仕事はしておらず、完全な年金生活者になった。