私の人生論 −人生は死ぬまでの暇つぶし−

まえがき

 人生には、いろんなことが起きる。自分自身に、また自分と関係する人に。その中で、迷い、悩み、思い患う事が多い、思い患って、迷路に入り込むと、抜け出せなくなるようなこともある。その結果、時には、自殺に至る事もある。心の深いところで迷路に入るとなかなか立て直せないことも多いが、ちょっとしたヒントやアドバイスによって、視点が変わり人生を立て直せる事もある。この私の人生論は、そんなヒント集を記したものである。
 
 もっとも、人生というものがどういうものかということを絶対の真理として説明することは不可能であり、絶対の真理というのは単なる独断である。人それぞれに人生に対する見方は違う。ここに書くのは、こう考えるのが私には一番理解しやすいという意味での人生論である。

 私の人生論の基本は、この世にはいろんな人がいて、いろんな考えがあり、いろんな生き方がある、そのすべてを許容できる視点を持ちながら、人と接し人生を生きていく、という立場をとる。自分の考えはしっかり持つけれど、自分の考えを相手には押し付けない。また、生き方に絶対的な真理ということを認めない。人々は不安から生き方の絶対的な真理を求めがちであるー多くは宗教の形をとってーしかし、それは生き方のファシズムであり、個人が個人としてもっとも人間らしく生きることの否定である。

第1章 死について

 人生論を語る上で、「死」の問題をとりあげないわけにはいかない。人間の根源的な不安は、いつかは死ぬという問題から生じているのではないだろうか。生まれてきた以上、死は約束されている。不確定の要素の多い人生で、絶対という言葉はこのことのためにあるようなものだ。生まれた人は絶対死ぬ。時として、このことが、人々を不安に落としいれる。死の実態は知りえないのに‥‥私も若い頃、死ぬこととはどんなことか、不安の中で思い悩んだことがあった。永遠(永遠という概念がなかなか実感できない)に意識を失い、覚醒しないなんてことは、想像がつかなかった。想像しようとすると、とてつもない恐怖に襲われた。そんな時、私に示唆してくれた一つの考え方が、死の状態は、睡眠のような状態であって、毎日、人間は死の訓練をしているのだ、という考え方である。眠っている時、それは、快楽でもなければ、苦悩でもない。そう考えると死は、恐怖ではなくなる。

 そして、もう一つ人の命を考える上で非常に参考になったのが、宇宙の進化の壮大な物語である。かつて、宇宙にはなにもなく、時間さえもなかったという。それが、ビッグバンによって宇宙が開け、塵のような物質が生まれ、それは多くの星を産み、太陽を作り、地球を作った。その地球で、宇宙の塵から、アミノ酸や蛋白質が生まれ、命の源となった(命の誕生は神秘で、理解しがたいものがあるが)。そして、原始生物から、様々な生物の進化の過程を経て、人が誕生した。私達の存在は、その宇宙の壮大な進化の中のひとこまであり、(ひとこまでしかない)命の源が、宇宙の塵であるという考えは、なぜか、私を安心させた。死んで、命が無くなると、灰(土)になるが、土から生まれたものが土に帰るのは、当然であり、それは元にもどるだけであり、特別未知の世界へ行くというものではないからである。そして、命の元となった物質には、もともと意識がなかったように、人は、死ねば意識のない物資になる。意識はすべて脳の所産である。永遠の命などというものはない。

 我々が死んでも子孫を残せば、我々を形作っている物質(特にDNA)が形を変えて存在しつづけ、また文化的遺産によって後世の人に影響を与えることが、違う意味で、命は永遠だと説く人もいる。又、魂や霊という特別の概念を持ち出して命の永遠を説く人もいる。しかし、現在の科学では、遠い将来、宇宙に終えんが来ることが予測されている。そこでは、物質が無くなるのは当然のこと、時の流れも途絶えるとされている。現宇宙の壮大な物語り−という一巻の映画の終了である。我々の人生というのは、この一巻の映画のごく小さなエピソードに過ぎない。「時空」を超えてという言い方をするが、その「時空」がなくなる以上、永遠の命などというものはありえないことである。我々の意識という意味の魂が死んでも残ると考えるのは、人間の永遠の命を持ちたいという願望が作りだした幻想である。

第2章 人間と神について

 前の章で、宇宙の進化について話をしたが、今、宇宙が存在し、我々が生きているこの状況をみれば、これらを作ったものの存在を考えないではいられない。それは「神」と呼ぶのにふさわしいと思う。だから、「神」は存在する。第一原因としての神である。世間一般では、神道やキリスト教の影響で「神」といえば、人間的な神(人格神)を連想するが、「神」は老子にいう「道(タオ)」の概念がそれに近いと考えれば理解しやすい。神は宇宙を作り、我々を作った。そのことについて、神は目的を持っているのか、気まぐれなのか、それは我々には知り得ないことである。我々が、知り得るのは、ただ、今存在しているものが現実にあるということだけである。神は大きな力で、我々を、森羅万象を、創造し、動かしてはいるが、それに対して我々が働きかけて何かをするなんてことは出来ないのである。神は一般の人がイメージしているものよりも、もっと偉大で遠い。そういう意味で信仰などは意味をなさない。

 我々が出来ることは、すべて神の前では許される、ということである。神がこれでよしとして創造したのであるから。たとえ、それが神の失敗作であっても責任は神にあり、原罪などと自分を責め苦悩する必要はない。最近の学問の成果によると、生物には、神の指示書が遺伝子情報(DNA)に書き込まれているらしい。人間社会では秩序を守るために許されないことは多い、この倫理と宗教を混同してはならない。現存する宗教は、倫理の世界に踏み込み過ぎであり、神の名において権力者に都合のよい倫理を説いてきたという側面を持っている。

第3章 人生の意味

 万物は流転し、変遷する。時の流れの中ですべてのものは変わってゆき、とどまるものはない。人も、生まれ、成長し、老い、そして死んでいく。若い頃の絶世の美女も醜い老婆になる。そういう意味で、我々の命もふくめ、すべての存在そのものは「空」であり、人生は「夢」なのである。刹那なのである。太閤秀吉の辞世は、「露とおち露と消えにしわが身かな難波のことも夢のまた夢」である。一所懸命に生き(働き)、最高の栄華を極めた人間が死ぬ寸前に人生とはこのようなものかと気づいたものがこの歌ではないか。

 しかし、そのことは人生を一所懸命生きてもしかたがないという意味ではない。我々の人生は、壮大な宇宙の進化の一コマであり、神のつくった壮大な物語りの一部に、偶然、出演の機会を得たと考えれば、人生は、もっと気楽になる。我々は、自分の意志で生まれてきたのではない。両親の意志、いや、もっと大きく神の意志によって、産み落とされた所産であり、生まれてきたことに、責任はない。また、人生には特別の意味はない。人生は単なる死ぬまでの暇つぶしである。神は、我々が自由に生きるれるように、個人個人のシナリオは用意しなかった、シナリオは自分の好きなように書けばよく、与えられた機会を十分楽しめばよい。これを自己実現と呼ぶ人もいる。シナリオは自分で書き、そのシナリオを修正しつつ、人生を演じればよい。いかに楽しく快適に暇をつぶせるか(いかに幸せに生きるか)というのが、生きていく上での一番の問題なのである。

 とは言っても、人生を生きる上では、自分の思う様にならず、様々な劣等感に悩まされ、壁にあたることも多い。また後述するが、自分の人生でありながら、自分でシナリオが書けないということも実際にはある。親や育った環境が人間の心の方向を規定しているからである。できるだけ人生の早期に、自分の心を見つめ直し、自分の心の成り立ちについて「気づく」ことが大切である。

第4章 宗教について

 私の個人的経験からいえば、苦しい生き方をしていた時(心の病を患っていたと思う)、宗教にも救いを求めたが、救われなかった。宗教を信じている人にとって、その教団が有り難く感じられることがあるのは事実だろう。しかし、それはカウンセリング的なカタルシスの作用であったり、集団催眠の作用などいわゆる心理操作の結果や所属欲求を満足させることから来ている、と考えられる。決してその信じている神や仏が有り難い特別の御利益を持っているわけではない。現存の宗教の教義には、神の意志なるものが示されていることが多い。何々してはいけない、とか、何々しろとか、どうしてそんな神の意志を知り得るのか。それは、ある種の人間が自分たちの意志を神の意志とすり替えただけに過ぎない。倫理や道徳、あるいは教団の秩序を守らせるために神の力を借りようとしただけであって、決して神の意志ではない。キリスト教の神などというのは、人間が作った神そのものである。人間の心の反映そのものである。また、信仰ということが宗教界では重要視されるが、信仰は神と人とのコミニュケーションである。そんなことが、あり得ようか。神とコミニュケーションできるなんていうのは、人間のごう慢である。あるいは、それに救いを求めざるをえない弱さの産んだ幻想である。

 宗教を信じる人は、その宗教に依存し、あるいは逃避していることが多い。それは人の持つ当然の弱さではあるが、何者かに依存し、あるいは逃避していては、いつまでたっても人間としての自立はなく、本当の意味の幸せもない。これは、アルコールや薬物依存の人たちにもいえることである。それは、依存するものや、逃避する場所がなくなった時、生きて行けないことを意味するからである。自分の心を十分見つめ、問題とは対決し、解決してこそ不安な人生から脱却できるのである。自分の心の成り立ちに「気付くこと」、これが自分を幸せにする。逃避する場所として宗教に救いを求める危険性を十分承知しておかねばならない。人間は神を信じて救われるものではない。それは外にある目にみえぬ「神」の力によるのでなく、人間の本来持っている心の回復力(内なる神)によって救われるのである。神は人に自分で自分を救う力を与えているといってもよい。それ以外は単なるお手伝いに過ぎない。現代は、まだその救いのお手伝いが宗教という形をとらざるを得ないほど、心理学や精神医学の力がないのである。現在の宗教の果たしている役割は、精神医学や心理学の無力によるところが大きい。

第5章 自殺

 不幸ではあるが、どう考えても苦しくて生きていけない、という結論に達すれば、死んでもよいというのが、私の自殺観である。自殺も安楽死も自分の意志で死ぬことは、許されてしかるべきと思う。人間が自殺できることは、神が許しているからであり、神の前で自殺は許される。動物には自殺は無いといわれている。これは神が人間に与えられた特権とも言えるものだ。人間にとって一番大切なのは自分である。その自分が苦しくて生きておれないという状態になった時の最後の救いが自殺である。この与えられている最後の救いをどうして放棄できるのか。命の尊厳といって苦しくても意味のない医療行為で延命するのには、疑問を感じる。人は、自殺は他人に迷惑をかけたり苦しめたりするからいけないという、しかし、自殺する本人はそれ以上の苦しみを生きて味わっているのである。この苦しみの解除に手をさしのべることが、自殺防止の重要問題なのであって、ただ、自殺はいけないことだから、してはいけない、といった倫理的自殺防止論は無意味である。ただ、自殺願望の大部分は心に病に罹っていて、本当は死にたくないのに、死を選ぶ事があることは、十分注意する必要があると思う。

 これは離婚の話と少し似ている。かつて離婚は罪悪のように言われ、結婚生活が苦しいだけの無意味なものであっても、離婚できなかった。ところが今は違う。結婚生活も相応の努力をしてもなお意味がなく、お互いを傷つけるだけのものなら、離婚は許されるのである。

 ただ、死は離婚と違い、不可逆反応であるから、あわてて実行してしまうと後悔してしまう結果になるかもしれないので、多くの人は自殺防止を説くのである。あわてて後悔しないように、一つの提言をしておきたい。自殺願望のある人は、出来れば、カウンセリングを受けたり、医学的治療を行なうのが望ましいが、それらに抵抗のある人は、とにかく30歳まで生きてみよ、ということである。30歳まで生きてそれでも自殺願望があったら、自殺すればいい。普通は30歳を越えると自殺願望はなくなることが多い。その時、若い日の自殺願望は一体何だったんだろう、と思う。

第6章 恋愛(男と女)

 恋愛は人生の重大事件である。恋はしようとしても出来ないし、しないでおこうとしても陥るものである。幸せになる道もあれば不幸になる道もある。そして、男と女はややこしい。異性間は惹かれあうのに、なぜこうも行き違うのか。脳の構造が違うからだという偉い先生もいる。そもそも恋愛は神が子孫を絶やさないように用意したシステムであるなら、もっと単純でいいはず。動物の行動から人間の行動を見つめ直す「比較行動学」でのセックスの部分を見ると、人間がいかに動物の遺産を引き継いだ進化の所産であるかがわかり感動させられる。パートナーの選択権は雌にあり、優秀な遺伝子を選ぼうとするといわれているが、実際はそうでもないようにも思える。好みというのはどこから来るのだろうか。また、恋愛が昂じての殺人や自殺が多いのは、生殖から遠く離れているように思うが、このシステムは人間になってどこか迷路に入っている気がする。しかし、その複雑さが高次な快楽を生んでいるのかもしれないが…。恋愛を語る際、性的な側面とロマンのどちらか一方を極論する人が多いが、双方あいまって恋愛は成立している、という視点の方が一番理解しやすい。
 また、私が不思議に思ったのは、恋愛について、妙に親子の愛情関係が影響しているということである。そして生殖期間が終わっても、男と女は惹かれあう。これも不思議だ。
 しかし、恋愛をしてこそ、他人に対する思いやりや他人との考え方の違いなどが分かるのであり、また自分の未熟さも痛烈に分かるのである。それに、これ程の快楽を神が用意してくれたのだから、利用しない手はない。確かに、人生を棒に振る、命を落とすこともある危険な快楽でもあるが…。恋愛をしない(しなかった)人は人生の大半の快楽をみすみす見逃したようなものである。
 恋愛については、いろいろ思うことが多く、まとめきれていないので、いずれ、別途「恋愛論」を用意したい、と思っている。

第7章 心の成熟と愛について

 人は「愛」なしでは生きていけない存在である。愛されたい、自分という存在をかけがえないものとして認めてもらいたいという欲求のかたまりのようなものである。私がカウンセリングの勉強をしている中で知った一つの真実は「人は自分の話を聞いてもらいたい存在である。」という人間理解である。どんな無口な人でも心を閉ざしている人でもアプーチを間違えなければ自分の話をしたがるし、聞いてくれた人には愛情を感じる。そのことは人間は一人では生きていけないことを意味する。愛の欠如した中で育った人間の心がいかに歪んでいるかについては様々な報告がなされている。また、十分に成熟した人間でなければ、本当に人を愛せないということも重要な問題を含んでいる。体の成熟については、外見からも割合分かりやすし、学校でも教えるが、心の成熟についてはなかなか分かりにくいものであるし、学校でも教えない。体だけが大人でも心の成熟が遅れている人がいかに多いことか。この心の未成熟な人が親になった時、子供の心に様々な歪みを残すのである。心の成熟していない人は他者との人間関係がうまく結べず、他人を不快にする。心の成熟度の一応の目安は自己中心性(わがまま)からいかに離れられているか、他人の考えや態度を許容できるか、また他人の立場を考えられるかということである。もう一つの目安は、何者(親、配偶者、子、先生、友人、趣味、宗教、アルコール、薬物等)にも依存せず、自立しているかということである。 

第8章 救いについて

 人は親から素質や性格を与えられ、教育や境遇によって心を規定され、幸せになりやすい人もいれば、不幸になりやすい人もいるということである。私は宗教の世界で「原罪」とか「業」といわれているものは、幼児期の歪んだ親の教育(意識、無意識を問わず)のことである、と思っている。と言っても、完壁な親などいないのであるから、すべての人の心は、多かれ少なかれ歪んでいる。問題はいかにそれに「気付く」かである。気付かなければ一生歪んだ心を抱えて、どうして私はこんなに苦しいのだろう、不幸な目にばかりあうのだろうと嘆き続けなければならないのである。心理学や精神医学は、親の間違った教育のせいで歪んだ心を、自分で自分の心を見詰め直して修正して、よりよく自分が生きれるように努力するためのお手伝いをしてくれる学問である。ここに救いを求めなくて、何に救いを求めようというのか。また、人生の生き方に教科書的生き方はない、ということである。それは、その人の持っている「らしさ」(個性)が創造するものであり、いろんな生き方がある、ということである。
 そして、生きるのは「今、ここ」の人生を精一杯生きることである、我々は、何か他の目的や将来(来世)の為に生きているのではない、今、ここに生きているそのことそのものが、人生なのである。

第9章 年代について

 10代は自我に目覚め理想を追い夢見る時代であり、思春期の思い出は美しいが、未知の世界も多く、悩み多く苦しい時代である。成長のピークは19から20歳くらいで、後は、老化が始まるといわれているが、人生が一番充実しているのは30代だろう。30歳という年令は、本当に大人になるという意味も含めていろんな意味で人生の転機である。体力や知力もまだあり、心も成熟し、精神的に意味なく苦しむこともない。通常は、配偶者を得て子供もできて家庭的にも充実している時期でもある。40歳を過ぎると老化を意識し始めるが、40代は、社会的には働き盛りの世代であり、子供も一人前になっていないことが多く、まだなんとかがんばれる。しかし、50代になると、急に老化現象が目立ち始め、子供も巣立ちし、人生の終焉を意識し始めることとなる。

 学生時代は時間はあるが金がなく、職業人になるとある程度のお金はあるが、自由な時間がないという状態になる。50代になったら、“アーリー・リタイアメント”(必要なお金を稼いで早く退職し、好きな第二の人生を送る)ということを考えよう。仕事は、生活費を稼ぐ手段であって、人生の目的ではない。ほとんどの人にとって仕事は必要悪だ。学者やスポーツ選手のように好きなことが仕事の人は、仕事が続けられるだけ続けたらよい。また、生活費に蓄えのない間は、働き続けなければならないが、生活費を蓄え、将来見通しが立った後は、無理して仕事をする必要はない。健康の為に働くとか、仕事を辞めたらすることがないなんて生き方は、本末顛倒ではないか。生きるために働いているのであって、働くために生きているのではない。 

 体力が残っている50代から70代までに、お金と時間を使って大いに楽しんでおきたい。これこそ人生最良の時代ではないだろうか。
いわゆる後期高齢者といわれる75歳以上の年齢になると心身上の問題がでてくることが多いが、これも個人差が大きい。その時、自分の状況を素直に受け入れられるかどうかで、幸不幸が分かれるような気がする。 

第10章 具体的な生き方について

 青春時代わけもなく苦しんでいた頃、「take it easy」(気楽にいこうぜ、というような意味)という言葉を知った時のホッとした安らぎを今でもよく覚えてる。人生は、あまり思い詰めないことである。特に、(将来的なことで)こうなったらどうしようとか、考えてもどうにもならないことに神経質にならないことである。物事には、考えたり、思ったりしてもどうにもしようのないものもある、ということを十分知っておく必要がある。もっとも一生懸命考えたり、努力してなんとかなるものもある。この両者を混同しないことである。そして、自分の力でどうしようもないものは、流されるしかしようがない、と腹をくくることである。
 細かな目先の生き方については、別途生活論を用意したい。